2014-05-20 第186回国会 参議院 農林水産委員会 第12号
また、没個性、没アイデア、そういう現場の声もございます。また、責任の不明確、危機意識の問題、競争原理の問題。また、食生活もどんどん変わってきましたし、サービス業のいろんな環境も変わってきました。
また、没個性、没アイデア、そういう現場の声もございます。また、責任の不明確、危機意識の問題、競争原理の問題。また、食生活もどんどん変わってきましたし、サービス業のいろんな環境も変わってきました。
外国人から見て、日本人は何か軍隊予備軍をつくっているのではないかと思うように非常に没個性的だということを言っていましたが、実際、そういうことではなくて、そもそも、精神性もたくましい、パワフルな子供ではなくて、トータル的に、草食動物という言い方もありますが、おとなしいといいますか、逆に言えば覇気のない、活力のない、それが結果的に、若者になってうつ病予備軍にもなっているというところもやはりあるのではないかということを
ただ、これが、ある意味、体に覚えさせる、まずは没個性なんですね、型というのは。自分がやりたいようにやるとか、自分が自由にといったことは認められずに、没個性ということで、師範あるいは流祖と言われるその流派をつくった人の型を学ぶことによって基礎、基盤をつくっていくのが道の文化でございます。
我が国の都市部においては、没個性で画一的な町並み、電線が張りめぐらされ、看板等の無秩序な乱立など、雑然とした景観が各地で見られ、景観の保全をめぐる紛争も多発しております。 また、農山漁村地域では、過疎化、高齢化等から生じる耕作放棄地や管理の行き届かない森林の増大等により、歴史、文化を物語る町並みや景観の多くが崩れてきており、我が国の魅力ある観光資源の喪失が指摘されておるところであります。
一方で、地方都市は、全国どこの地方都市の駅前に行っても、同じ風景が並ぶ、画一的な、没個性的な町並みというふうになっております。
その一方で、やはり国土の均衡ある発展ということが都市政策あるいは国土政策の中心であったことによって、没個性の町がたくさん出てしまった。
なぜ日本の都市がこのように画一的、没個性的な町になってしまったのかということについてのお尋ねでございます。 今先生も御指摘されましたように、この問題の原因を一つに特定するのは難しいことではないかと思います。
したがいまして、日本全体が一律の情報環境になり、大量販売、規格大量生産には向いておりましたが、没個性、均質社会になった。対面情報を重視するために、人脈重視、選別的な官僚主導が行われるようになりました。また、文化創造活動も、もたれ合いの社会になって、世論が一色になってしまいました。こういったことは、新しい知価社会においては大変不利なことであります。
ともすると、私たちからすると、どうも裁判官というのは、顔が見えなくて没個性で画一的であるのがいい裁判官なのかどうかというところがあるんだと思うんです。そういう意味で、先生の裁判官としての理想像はどういうところにあるのか。 それと、私どもは、司法の裁判所の現場がよくわからないんですが、本当に最高裁の判事の方々は、憲法に対する感覚がどれぐらい鋭いのかというところがよくわからないところがあるんですね。
例えば、先ほど触れた伊藤元最高裁判所裁判官は、我が国における理想的な裁判官像は、ヨーロッパ大陸におけるのと似て、顔のない裁判官、共通した画一性のある裁判官職の持つ良心に従って、できるだけ没個性的な裁判をする裁判官のうちに求められており、こうした大陸型の官僚裁判官制度を取るところでは、個性的判断を要求される憲法裁判に積極的態度を望むことはいささか無い物ねだりの感じがするし、多彩な経歴を持つ裁判官をもって
結婚でも、十分それぞれの個性が生かされる結婚もありますし、なかなかそういうわけにはいかないという没個性的な生き方をしていかなければならないのかなというような一面もありますから、お互いにこれまで持ってきた役割や使命を十分に生かしつつも、組織として効率的に運営することができるのだという、このあたりについて御見解を伺っておきたいと思います。
初等中等教育における教育現場での深刻な現状、受験競争の激化の中での子供たちの萎縮、没個性化、国際化や情報化への立ちおくれ、高等教育における新たな時代への対応の不足等は、教育に対する過度な規制にその大きな要因があると考えます。教育改革の推進に当たっては、思い切った見直しからスタートすべきだと考えますが、総理の見解を伺わせていただきます。 次に、補正予算及び平成九年度予算案に関連して伺います。
したがって、霞が関からは多彩な自治体の特性を的確にとらえた行政を打ち出すことは至難のわざであり、没個性的になることは避けられません。 地方住民みずからの手によらなければ「個性豊かで活力に満ちた地域社会」という地方分権の理念は達成できないと考えますが、総理の御意見をお尋ねいたします。
それは、人間、自由社会というのは大変好ましいことでございますけれども、しかし、その国の歴史風土、それから国民性、特に、まあ笑い話のようでありますが、何々御用達あるいはブランド製品志向の、没個性の我々日本人という立場から考えますと、本当に規制緩和というのはその国民性 まで大きく変えていく問題になる。 例えばアメリカは訴訟社会である、こう言われているわけです。
それから四つ目は、我が国の教育では、公的な人材の養成を余りにも強調し過ぎて、没個性的な人間ができてしまう。要するに、置きかえ可能な人間がつくられている。だれでもそのことはやっていける置きかえ可能な人間ができている。そうではなくて、いわゆる個性教育というのは、置きかえのできないような個性的人間をつくること。すなわち、独立人間を育てるということが大切だというようなことを言っているわけです。
一言で言ってしまえば、それは正確無比ではありますが、大量生産に基づきます画一的かつ没個性的なものであって日本社会の効率重視と集団主義を象徴するものとなっていると言っても過言ではありません。 激動する国際社会の中にありまして、日本の姿をどのように世界に示していくのか、今問われている問題でもございます。
先ほど加藤委員にも申し上げましたような、駐車場のことではございませんが、没個性のようになってしまってみんな同じようなものばかりがつくられていくというのでは、これまたキャラクターというものがなくなってしまうかもしれません。
また、学校におきましても、いわゆる学歴偏重の風潮と申しましょうか、そういった社会風潮を反映いたしまして、偏差値重視、そうして没個性の教育が行われる、こんな点があろうかと存じます。それからさらに、御指摘のとおり、社会におきまして、最近、豊かな社会は結構なんでございますけれども、物質本位あるいは自己中心的な風潮がある、これが非常に大きな原因になっているんじゃないかと思います。
例えば物流面、情報面につきましても非常に伝達しやすいというメリットはあるわけでございますが、逆に言いますと、企業の没個性化といいますか、過当競争性を同時に内包することになるという欠点もございます。 また、企業の零細性につきましては、やはり変化への対応力が損なわれるということは御賢察のとおりでございます。
大学の教育、研究を活性化するためには、現在の国立大学の親方日の丸的な体質、すなわち文部省がいわば直営事業として設置しているために、画一的で没個性的な運営や事なかれ主義が横行している状態を改めなければならないと私は確信するのであります。
特に、六十二年度予算に初めて計上されました初任者研修制度はまさに政治のにおいぶんぶん、新任の先生が一年間、任命権者である教育委員会の息のかかった指導教員にみっちり指導されたならば、一体どんな先生ができるのか、権力の鼻息をうかがう没個性の教員が果たして臨教審のうたう個性重視の教育などできるだろうかという痛烈な批判があります。
ですから、その際に、今申し上げた教育基本法の原点になった国家主義、軍国主義、国民教化の教育であったという没個性の部分が総括としては非常にスポイルされている、この点が後の改革の方向にいろいろな問題を波及させてきているのではないか、私はこのことを指摘しておきたいと思います。